タレントのギャル曽根さんは、シングルマザーの家庭で育ちました。いつでも明るいお母さんは、質素でも「家族で食卓を囲む幸せ」を大事にしていたと言います。10LDKの豪邸から借家住まいへの変化を経験、さらには周囲にお父さんがいないことを言い出せない10代でした。シングルマザーの友人には、「困ったことがあればいつでも飛んでいくよ」と伝えたいと話すギャル曽根さんに、こども時代の思い出、当時や今の心境をうかがいました。
――ご両親が離婚されたことを知ったのは、いつですか?
気がついたのは、小学5年生のときです。引き出しの中に見慣れない紙が入っていて、「これって離婚届じゃないよね」と母に聞くと、「これは離婚届じゃないけれど、離婚はしてるよ」と言われました。両親が離婚したのは、実は私が小3のとき。私は気づいていませんでしたが、1歳上の姉は知っていたようです。そこから母、姉、私、弟の4人の生活が始まりました。
もともと父は建設系の会社を経営しており、仕事の関係もあって、あまり家に帰ってこない人でした。そういえば最近帰ってこないな、とは思っていたのですが、まさか離婚だとは、思いもよらなかったのです。
離婚直後は結構大変だったみたいで、借金取りが家の裏のドアを叩くこともあったようです。母は精神的にもつらく、「お父さん」という単語も聞きたくない感じだったので、私たちも何となくお父さんの話を避けていた気がします。
――離婚後、生活はどのように変わりましたか。
生まれ育った家は、10LDKの大きな家でした。ピアノの部屋があって、仏間があって、客間がすごく広かったのを覚えています。その家にはいられなくなり、離婚を知った直後の小5のときに同じ市内の借家に引っ越すことになりました。
お父さんがいなくなったという事実を知って悲しい上に、引っ越しです。引っ越し先は、きょうだいの机3台も置けないくらいの狭い家。1台の勉強机を3人で交代しながら使う生活に変わりました。
中でも私たちがいちばん悲しんだのは、家にあったピアノです。母方のおばあちゃんがくれたグランドピアノで、置くスペースがなく手放しましたが、母もとても寂しそうにしていました。前の家には愛着があって、自転車で行ける距離だったので、こっそり見に行ったりもしましたね。
――働き手はお母さんひとり。家族4人、曽根家はどのような暮らしになりましたか。
小学校の教師だった母親は、すべてをひとりでこなしていました。私たちはかぎっ子で、母が帰ってくるのを家や近所の公園で遊びながら待つ日々でした。母は仕事を終えると夕方5時には家に帰ってきて、すぐにご飯を作って家族で夕食を取り、9時には就寝する毎日。母はとにかく明るい人なので、父がいなくても家庭は明るかったですし、頑張って何不自由なく育ててくれましたね。父から養育費はもらっていなかったと思うので、家計は大変だったはずです。
母はみんなで囲む食卓を大事にしていて、手作りのほうが安上がりということもあったと思いますが、外食にも行かず、節約しながら私たちにお腹いっぱい食べさせてくれました。きょうだい揃って大食いでしたから(笑)、ハンバーグを作るとなると、タネにパンを入れてかさ増しして、25個も作るんです。きょうだいで8個ずつ、母は1個。もう年だからあまり食べないのかなと、その頃は思っていました。
姉と私は陸上部に所属していたので、よくマラソンの大会に出ました。大会で1位になると、お米やお肉、メロンやすいかなどの賞品をもらえるんです。参加料を払って出場するので、必ず何かを持って帰れるように頑張って走りました(笑)。何をもらえるかチェックして出るレースを決めることもありましたね。賞品を持って帰ると母は「よくやった!」って喜んでくれて。
それから、大変ななかでも、年に1回くらいは旅行に連れていってくれました。母の知り合いが持つ山へ行って、そこで山菜を採るのが恒例だったんですが、母が競争みたいにして盛り上げてくれて。私と弟は、結局川遊びのほうが楽しくなっちゃうんですが、母と姉は袋いっぱいに採っていました。レジャーと言いつつ、食料を確保!でも家族で結構楽しんでいましたよ。
――こども心に大変だったことは何でしょうか。
私は父親がいないことを周囲に知られるのが本当に嫌でした。京都の小さな田舎でしたから、私が小中学生の頃は噂話がすぐに広まる気がして。「あそこの家、両親が離婚したんだって」「お父さんいないんだって」と言われるのが嫌だったんです。
当時は学校の名簿があって、父の名、母の名、住所や電話番号が書かれていました。父の欄に名前がなければ、お父さんがいないのは一目瞭然。父がいないことで、私たちが嫌な思いをするかもしれないと母が思ったのでしょうか。名簿にはいつも父の名前が書かれていて、離婚後も姓は変わらず元のままでした。
毎年名簿が配られるたびに、父の名前が消えていないか、ドキドキしたのを覚えています。きょうだいで同じ学校に通っており、「バレてないよね」と悩みを共有できたことが、両親の離婚を乗り越えられる力になったのだと思います。
とはいえ高校時代や専門学校に入ってからも、父がいないことを自分から周囲には話しませんでした。「あの子お父さんいないんだって」とレッテルを貼られたり、「かわいそう」と思われたりするのも嫌だなという気持ちがありました。
その後、東京に出てきて、自分の世界を持って、やりたいことが少しずつできるようになって、やっとそれが気にならなくなりました。今思うと、小さな悩みだったと思えるのですが、小さい頃はあの狭い、小さな世界がすべてでしたから。周囲の人の思惑や世間の声に合わせる必要がない世界があるのを知ってから、楽になったんだと思います。
――こどもの頃は相当わんぱくだったそうですね。
姉と弟は、成績もよく「良い子」でした。私はというと、ギャルです(笑)。あゆ(浜崎あゆみさん)が好きすぎて、高校生になると、同じように髪の毛を染めていました。田舎の町では目立つので、母からは「見た目で目立たなくてもいいんじゃないの」とよく言われました。
反抗期は激しかったですね。母の顔を見るのも嫌だったし、一緒に出かけるのも嫌。全てが嫌だったんです。理由は特にないのだけれど、顔を合わすと喧嘩していました。休みの日に母が出かけず家にいると、「本当に友達いないんだね」とか意地悪言ったりして……。
そんな私に母は凄く悩んだそうです。「子育てが思うようにいかない」と、私の姉に少し愚痴っぽく話すと、姉は「いろいろな子を育てられていいじゃない」と言ったらしいのです。その一言で、母は肩の荷が下りて、全然言うことをきかないギャルみたいな娘を育てるのを楽しめるようになったそうです(笑)。
――進路はどのように決めたのですか?
母の教育方針は、とにかく手に職をつけることでした。離婚した母がやっていけたのは、教師という職業があったから。質素ではあったけれどひとりで育てることができた、とよく言っていました。その影響と、食べ物が好きなことから、何か免許を取って食に携わる仕事がしたいと思い、調理師への道を選びました。その夢を応援してくれて、進路が決まってからですかね。母とは仲直りができ、以前のように話ができるようになりました。
私は母を悩ませた子でしたが、3人を育ててくれたことを本当に感謝しています。定年まで働いて、今では友人と旅行に行き、大好きなオペラを観て楽しんでいる母の姿を見ると、ああよかったなあと思います。ひとり親家庭だったからか、家族の結束が強く、今でもみんなでよく集まります。すき焼き2kg、焼き肉2kgなど、大量の肉を買い込んで (笑)。母も楽しそうです。
私は今、小学6年、3年、0歳児の3人のこどもがいますが、母の手も借りながら子育てしています。孫をみてもらうのも、親孝行になっているのではないのかな、と甘えています。
――シングルマザーだったお母さんに、思うことはありますか?
離婚後、祖父がお米や野菜を送ってくれることはあっても、事情があり、母が実家を頼ることはほとんどありませんでした。それと同時に、近所の人に離婚したことも言えなかったので、周囲に頼ることはほぼなかったと記憶しています。
今、私の周りには、シングルマザーの友人が6人ほどいます。初めはシングルだとはっきり分からなくても、話をしていくうちに自然と打ち明けてくれた人もいました。同じママ友として、こどものことを話す中で、シングルマザーとしての悩みを聞くこともあります。昔と比べると、シングルであることをオープンにしている人たちは多いんじゃないかな。彼女たちは公的な支援も受けながら、頼れるところは頼っていると思います。
私自身、彼女たちが悩みを話してくれることは、とても嬉しいです。全力で応えたいと思います。こどものことは特に悩みが多いと思うので、小さなことでも周囲を頼っていいと思いますね。言うのが恥ずかしかったり、こどものことを考えて言わなかったりする人もいるかもしれませんが、他の人に頼ることは、こどもにとっても、いろいろな大人と触れ合えて学べる機会になると思います。
我が家のこどもたちも、近所のおじいちゃんおばあちゃんから「お祭りがあるから来なよ」「こども見てあげるからやることあるなら行ってきなよ」って声をかけてもらうことがあります。こどもたちも楽しいし、私も助かるので、ありがたく頼っています。
シングルであってもそうでなくても、働きながら子育てするのは大変です。時代も場所も違いますが、母も全てひとりでやろうと背負いこまないで、頼れるときは本当に頼ったほうが良かったのではないかと思います。
――ひとり親家庭で暮らすお子さん、親御さんに向けて、どんなメッセージを伝えますか。
もしその子が、うちのこどもの友達だったら、うちにおいでと言いますね。何かを聞いてあげたりアドバイスしたりするというよりも、全力で一緒に遊んであげるかな。もう少し年齢が高くなると、難しいですよね。でも悩みを言ってくれたら、すぐにでも飛んでいけるようにしておくね、という気持ちを伝えますかね。
私もひとり親家庭で育ったので、いろいろ大変なことはあったけれど、今では、小さな悩みだったと思えるようになっています。だから、血が繋がっていてもいなくてもいいので、周りに相談できる人を持ってほしいと思います。
シングルの家庭って、家族の結束力が強い。本当に大変な反抗期の時でも、心のどこかでこどもは親のことを大好きですから。さまざまな悩みはあると思うけれど、乗り越えていってほしいです。
ギャル曽根さん
1985年京都府生まれ。2005年「元祖!大食い王決定戦」でデビューし、おおらかな食べっぷりで人気を博す。タレントとして活躍する一方、「食のプロ」としてレシピ本の出版などをおこなう。調理師免許や野菜ソムリエの資格をもつ。