テレビや劇場で幅広く活躍する、お笑いコンビ・アインシュタインの河井ゆずるさん。母子家庭で育ち、家賃が払えずに家族でプレハブ小屋に住んでいたこともあると言います。夢を諦めざるをえない状況のなかで、それでも前を向き、お笑い芸人になった現在は、児童養護施設への支援活動を続けています。河井さんは経済的に苦しい日々の中で、どのように過ごし、苦境を乗り越えてきたのでしょうか。こども時代の生活や今の思いについてうかがいました。
――3歳のときにご両親が離婚されたそうですが、生活はどのように変わりましたか?
母親が能天気で勝気なタイプなので、家の空気は悲観的な感じではなかったですね。母はスナックで働いていたんですけど、夜に家をあけたくないと言って、僕が幼稚園のときくらいに喫茶店を始めたんです。モーニングをやっていたので朝7時くらいにお店を開けて、夕方の6時か7時くらいまで働いていたと思います。
――お母さまが家にいない時間が長くて、さみしくはなかったですか?
2歳下に弟がいて、僕が中学に上がるくらいまでは祖母も一緒に暮らしていたので「母子家庭だからさみしい」とは全く思わなかったですね。友だちもたくさんいましたし、昭和の時代なので近所づきあいもけっこうあって。当時住んでいたアパートの隣の部屋に、管理人のおばちゃんが住んでいて、手づくりのおかずを持ってきてくれたこともありました。
――中学生のときから、家計を支えるためにアルバイトをされていたそうですね。
中2のときから、新聞配達をしていました。地域新聞なので、放課後のあいている時間に配ればよくて。家計を支えるほどの稼ぎにはならないですけど、必要な文房具や学用品とかはそのお金で買っていました。
内職もやっていましたね。商店街の乾物屋のおっちゃんから、昆布が入った大きい段ボールをもらってくるんです。その昆布を蛇腹に折って“舟”をつくる内職で。料亭で料理を出すときに使うと説明されていました。1艘つくって1円にもならなかったと思うんですよね。大きい段ボール1箱分をつくって、500円くらいだったかな。「こんなに作ったのに何でこんなに安いんや」って思った記憶があります(笑)。
――中学生だとアルバイトをしている同級生は少ないですよね。なぜ自分だけが…という思いはなかったですか?
それはなかったですね。まだ中学生なので、ちゃりんこをこぐだけで楽しいじゃないですか。隣町にタワマンが建ったとき、「むちゃくちゃ新聞配れるわ、ラッキー」みたいな(笑)。何の疑問も不満もなく、ゲーム感覚で楽しんでいました。
――高校生のときはどうでしたか?
酒屋の配達とか、コンビニやチェーンの飲食店でバイトをしていました。そんなに大変ではなかったですが、きつくなったのは高3のときですね。母が喫茶店をたたむことになって、ラーメン屋でバイトを始めたんです。一家の大黒柱がフリーターっていうのが、不安定で怖くて。ちょうど母は更年期障害にもなって、僕をむちゃくちゃ怒るんです。それもきつかったですね。体調が悪い日も多くて、母がバイトに行けない日は僕が代わりに行っていました。一番恐ろしいのが、母はその状況をピンチだと思っていなかったんですよ。バイト先のことも「あそこのまかない、うまいねん」って。頼もしかったですけどね。「人間は死ぬ気でやればできへんことはない」っていうのが母の口癖でした。
僕が高校を卒業して半年くらい経ったころに、とうとうアパートの家賃を払えなくなって。母の知り合いのつてで、ビルの屋上のプレハブ小屋に無料で住まわせてもらうことになりました。厳しい戦いが始まったなと。しんどかったですね。
――どんなことが一番しんどかったですか?
とにかく働いてお金を稼がないといけない状況のため、夢を断たれたことです。こどものときからお金を意識せざるをえない環境にいたので、将来の職業については、早くから真剣に考えていたんです。小3くらいまでは、野球選手になりたくて。でもスポーツってお金がかかるじゃないですか。だから諦めて、元手がかからなくて有名になれる仕事はなんだろうって考えました。当時は父親に対して「絶対に見返してやる」という気持ちが強かったから、有名になりたかったんです。考えた結果、条件を満たしたのがテレビに出るお笑い芸人。お笑い文化が根づいている関西人にとってはベタな夢ではありますが、僕は日に日にその思いが強まって。毎晩、テレビに出る自分を鮮明に思い描きながら、眠りにつきました。何年もそうやってイメージしてワクワクしてきたのに、「あれ? 実現できないかもしれない」と気づいてしまったんです。
――その後はどうしたんですか?
何も考えなくてすむように、朝から夜中まで、毎日バイトをしていました。僕、20歳くらいまでテレビを見られなかったんです。どのチャンネルも、だいたい芸人が出てるじゃないですか。うらやましくて。しばらく不貞腐れていたんですけど、プレハブ生活になって半年くらい経ったころに、いつまでも後ろを見てる場合じゃないと切り替えました。今世は母と弟を養うために生まれてきたんだと。そのために自分で飲食店をやるという目標を立てました。家族から逃げる道もあったかもしれないけど、目の前のやらないといけないことをほったらかしにして、自分の夢を実現することはできないと思っていました。意地でもこのプレハブ生活の状況を打破してやろうと。
――体を壊すまで働いたそうですね。
月曜から土曜は朝7時半から夕方までテレアポのバイト、夜は週4で塾講師、週2でレストランバーで働いていました。お金はほぼ全額家に入れていたので、経済的には少しマシになってきて。弟が大学に行きたいというので、奨学金も借りましたが、受験料や入学金は僕が出しました。
4~5年は、ほとんどプライベートの時間もないくらい働いたら、ある日倒れてしまって。バイトを全部やめました。療養中にいろいろ考えて、この生活を20年、30年続けるのは無理そうだなと。それで就職しようと就活を始めたんです。面接を何社か受けて、条件がよかった5社目の会社の面接で、高卒では無理だと言われて。
夕方プレハブに戻る道中、自転車をこぎながら、全然やりたいことないし、この先どうしようかなって。そのときふと、「やりたいことあるやん!」って、芸人になりたかったことを思い出したんです。その足でNSC(吉本興業の養成所)の願書を取りに行ったら、締め切りの前日で、その場で記入して提出しました。先のことはわからないけれど、やっとスタートラインに立てたような気持ちでした。
――芸人になられてから、児童養護施設財団への寄付など支援活動をされています。どのような思いからですか?
バイト時代に先輩から「ゆずるの使命は何?」って聞かれたんです。考えたこともなかったですが、先輩から「使命があったほうが、何をするにしてもモチベーションにつながるよ」と言われて。僕は母子家庭で育って、経済的に厳しかったですけど、母親から愛情だけは注いでもらえた。そんな家庭で育った自分に何ができるかを考えたときに、さまざまな理由で親がいない子のためにできることがあれば、一生をかけて取り組みたいと思うようになりました。とはいえ、当時の僕はまず自分がおかれている状況を何とかしないといけなかったですし、芸人になってからもバイトを掛け持ちしていたので「寄付するのは売れてから」と思っていました。でも2018年に1人でやったライブで「なんばグランド花月」(吉本興業が運営する大阪・難波の劇場)の客席を埋めることができて。まだまだ売れてはいなかったですけど、売れるのを待っていたら「いつになんねん!」って思って、寄付をスタートさせました。
――お母さまからの愛情はしっかり感じていたんですね。
まぁ、そうですね。僕たちのために必死に働いてくれて、ごはんを食べさせてもらって。母はこれまで自分のための贅沢をしてこなかった人なので、最近は旅行や食事に連れて行きます。文句ばっかり言われるんですけどね(笑)。たった1人の親ですし「長生きしてください」と思っています。
――経済的に苦しい環境にいて孤独を感じているこどもたちや、ひとり親家庭で育った若い世代へ、河井さんからエールをお願いします。
僕は家の状況を友だちに隠したことがなくて、「うち、全然金ないねん」って言っていました。プレハブにも友だちを呼んでいましたし。そのせいか、孤独感や孤立感はまったくなかったんです。攻撃は最大の防御というか、隠すほうが逆に気をつかわれると思うんですよね。
僕の場合は隠さず話すことでイヤな思いをしたことはないですけど、もし貧乏をいじってくるような人がいても、自分の人生に1ミリもプラスにならないような人のことなんて気にしなくていい。自分のことを大事にしてくれる人を大事にしていけばいいと思います。
経済的な事情から、若いうちから働かなければならない子もいるかもしれません。僕自身は若いときから働いて、働くことの素晴らしさやありがたみを感じることができました。周りの同級生よりもそれを早く感じることができたのは、よかったなと思っていて。アルバイト時代の経験が、お笑いの仕事に役立っていると感じることもよくあります。バーでカウンターにずらりと座るお客さんたちを前に、MCみたいに1人ずつ話をふった経験とか(笑)。マイナスな状況の中でプラスを探す、くらいの気持ちで生活してほしいと思います。
――ひとり親家庭でこどもを育てる親御さんに伝えたいことはありますか?
経済的にしんどかったとき、僕たち家族は視野がほんまにグーっと、狭くなっていたと思うんです。周りは真っ暗で目の前にある灯りだけを頼りに生きていたような感じで、おそらく公的な支援などは利用していないんです。ネットがない時代なので、情報を得にくかったということも大きいと思います。いまはひとり親家庭に向けたさまざまな制度や支援がありますし、少しの努力でそうした情報にアクセスできます。
悲観的に考えているときは、視野が狭くなりがちですが、ご自身のおかれている状況や環境をなるべく俯瞰して整理すると、制度や支援を利用するなど、現状を打破できる突破口はきっとあると思います。あとは“気持ち”。気持ちだけでは何とかならへんことはもちろんありますが、気持ちで何とかなることもめちゃくちゃあると思うんです。母は根性だけはあって、よく笑っていました。当時は「大変なときなのに、よう笑っとるな」と思っていましたが、いま振り返ってみると、母のそんなたくましさや明るさに助けられていたと感じています。
河井ゆずるさん
かわい・ゆずる 1980年大阪府生まれ。NSC(吉本総合芸能学院)大阪校26期生。2010年に稲田直樹さんとお笑いコンビ・アインシュタインを結成。劇場やテレビなどで幅広く活躍する。2025年度から公益財団法人日本児童養護施設財団の公式アンバサダーを務める。